生き抜け!

人間、社会に出て、本当に困ったときは誰も助けに来ん!
本当に困ったときは、「最初からやり直し!」で全く新しい新基軸は降臨しません。 そんな体裁の良い逃げ道などはすでに無いのであります。 自らがそれまでに習った知恵・知識の順序を入れ替えたり、引っ付けたり、飛ばしたり…。 また目の前の机の上に、使えそうな手段を全部書き並べ・総動員して、 その中で現実的に使える物を捜す。 それ以外に凌ぐ方法は無く、感情など端から出てこないのであります。本当に困ったときは!
数学の勉強も全く同じであります。 新しい公式を支えている知恵の殆どは、大学の範囲から下りてきた公式でない限り、 その手前の知識の持ち方・使い方の中にこそ知恵がある、問題を解く鍵が眠っています。 くどいようですが、問題が解けない、詰まったときには「これまで習ったことの知恵の中で、 自分が使い切れなかった物を捜せ」と、 問題が初学者に命じているということを忘れないで頂きたい。 学問に対する気持ちは、あればあっただけ良いに決まっておりますが、 そういった気持ちの部分と、学問を修める方法論とは分けて考える必要があると、 私は申しておるのであります。
関連することでございますので、市販の問題集の模範解答・ 正解について少し立ち入ったお話を申し上げます。
私はテキストに書かれている模範解答というものが、 20年経った今でも好きにはなれないのであります。
テキストの模範解答は、国語の字引と同じで、簡潔に短く、 数学で言えば単元に則して答えが書いてあるだけです。 「それが唯一の正しい答えであるか」と鑑みると、そんな高尚なものとはとても思えません。 例外もあって良いのでは、というレベルではありません。 作者がこれを正しいと思った程度の物に過ぎないというレベルではないでしょうか。
例えば、私が人のいない時間に答えを作っていたとしましょう。 そこに昔の塾生がビールとコップを片手に遊びに来て… 若しくはお母さんが訪ねていらっしゃる…。 それら中断を挟んで答えの作成に戻りますと、私の途中書きの答えへの筋道が、 かなり異なるのであります。 訪ねていらっしゃった方が長居をし、私自身答えの筋道がその前に完成していることを忘れ、 もう一度掻いた答えへの筋道は、前と別物であります。 数学はひとつだと世の中の人に思われている節もありますが、 数学(式)も言語でございますので、小説家が小説を書くのと同様に、 原稿の途中で人に会うと、内容が微妙に異なってしまうのが現実であります。 フェルマーの最終定理を解いたアンドリュー・ワイルズ(Andrew J. Wiles) が屋根裏に7年篭ったというのは、この辺りの理由があると推します。
数学において、答えはかならず明快な数です。 極論すれば「ひとつ」です。しかし、その過程は無限の筋道であります。 答えが明快に1つに定まっている事と、過程が無限にある事は決定的に違います。 勉強中の生徒も、指導中の先生も、そこは絶対に混同しないで頂きたい。
初学者の中には、直前に見せられた模範解答と違う解き方で進め始める生徒もいます。 それを見て初学者の考え方だと平手打ちし、 模範解答を聖書のように奉ってみせてはなりません。 理論的な思考を伸ばしてあげるのが、 もっとも学問に近い、伸びる勉強だとお考え頂きたい。
理数の学問において、結論を導くまでの過程を逐一あげてみましょう。 与えられた設問の中から使えそうな条件や数値に焦点を当てます。 それに対し、幾つもある中から使えそうな概念を選びます。 変形や一般化を通して発展させていく。 発展を数多く繰り返すうち、求める数値にたどり着く。 そして、その後、必ず結果比較をさせる。こういう流れでございます。 正しい解法というのは、 結果(答え)までの無限の筋道とそれぞれの比較の中にあるのであって、 それをひとつに限定すべきものではありません。

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